創業大正7年の黒毛和牛専門店
スーパーやショッピングモールの台頭により、消費者の購買行動は大きく変わった。シャッターを下したままの商店街や、後継者もなく廃業を余儀なくされる個店は後を絶たない。しかし、そんな現代にあっても、活気に満ちた店がある。株式会社繁本精肉店(以下、繁本精肉店)だ。
1918年(大正7年)の創業以来、兵庫県産三田和牛を主とした黒毛和牛や、兵庫県産三田ポーク、国産若鶏などの精肉、手づくり惣菜、オリジナル調味料などを販売する肉の専門店。集客にとって好立地とは言い難い、静かな住宅街の中でも来店客は後を絶たず、コロナ禍には弁当店も出店するなど、その勢いは止まらない。しかし、代表取締役である繁本泰孝氏が家業を継承した2007年は、泰孝氏をして「先代たちを恨んだ」と言わしめたほど、店の経営状況はどん底の状態だった。
事業の継承から15年を経た今、年商は当時の12倍。その背景には、泰孝氏が取り組んできた数々の経営改革があった。
どん底からの事業承継
繁本精肉店は、泰孝氏の曽祖父にあたる才吉氏が1918年(大正7年)に創業。105年目を迎える、老舗の黒毛和牛専門店だ。2代目の祖父幹雄氏、3代目の父保博氏の後を継承した泰孝氏は、大学を卒業後、不動産会社勤務を経て2007年に家業に従事した。
家業を継ぐにあたり、泰孝氏は精肉の専門学校へ入学。初めて手にする包丁と格闘を重ね、半年後には首席で卒業し、店頭に立つことになったのだが、すでに店の経営状況はどん底。打つ手もほとんどない状態だったという。
「肉って気軽に買えるものじゃないから、お客さんも少ないのだろうと、特に悲壮感もありませんでした」という泰孝氏だが、閉店後に通ったアルバイトでの給料が、家業で受け取る金額を上回った時、「本業で稼げるようにならなくてはいけない」と、ようやく気が付いた。
「過去10年以上、ずっと右肩下がりの売上を、上向きにすることができれば、自分の給料を自分で決められる」
継承者として真正面から家業に向き合うことを、泰孝氏は決意した。
他店に学んだ4代目としての経営改革
最初に泰孝氏が着手したのは、仕入れの見直しだった。勧められるまま仕入れていた肉を、在庫と売れ筋を見極めながら適正な量を購入。同時に、無駄な経費をとことん削減する努力を続けた。
次に取り組んだのが、プライスカードの変更だった。
「高価なすき焼き肉は売れていたのに、小間切れのような安価な肉が売れていなかったんです」
黒毛和牛なのに、売れないのはどういうことなんだろう? 泰孝氏が気付いたのは、プライスカードの記載内容と、肉の見せ方だった。
「黒毛和牛という記載がなく肉の価値が伝わっていない、部位の名前も書いていない、どんな料理に使っていいのかわからない……。ただ値段しか書かれていないカードでした。さらに、切り落とし肉をすき焼き肉のように並べてしまい、食欲をそそらなかったんです。100g300円で売れなかった肉を、『黒毛和牛切り落とし』と書き、敢えて無造作にボリュームを持たせて盛り付けたら、380円に値上げしても、ものすごく売れるようになったんです」
扱っている商品の中身をきちんと知らせ、見せ方を工夫することの大切さを、泰孝氏が実感した出来事だった。
さらに泰孝氏は、手づくりのチラシを携え、何百軒もの近隣家庭を一軒一軒回り始めた。住人を玄関先まで呼び出し、チラシを見せながら案内することで、じわじわと来店客が増え始めた。
「意識を変えて取り組み始めたら、1年後には売上が10%伸びていました。この数字が、最初の私の実績でした」
さらに、イメージを変えようと店舗を全面改装。フライヤーを導入し、コロッケやメンチカツといった惣菜の製造・販売を始めると、若い来店客が増えていったという。
「リニューアルによって口コミが生まれ、広がり方が加速していることを実感しました。当時は無我夢中で、1年終わるたびに『今年の売上は前年比10%達成した、今年は15%伸びた』と、達成感を原動力にしていましたね」
そんな泰孝氏に、新たな転機が訪れた。2014年、名古屋で20店舗を展開している大手の精肉店へ、一カ月半の「修行」に出かけたのだ。そこで、利益を追求する姿勢への自店の甘さを感じたという。
「地元の人に喜んでもらえるなら、利益は二の次でいいというスタンスだけでは、店は発展しないと痛感しました。暇な時はのんびりしようという家族経営的な働き方ではなく、どんな状況でも徹底して働くサラリーマンの姿勢を目にした時、それが私や家業に足りなかったものだと気が付きました」
そしてもう一つが、職人技術の追求と仕事の効率化を、両立させる重要性だった。
「職人気質の父から、仕事の丁寧さは引き継いでいましたが、それだけではだめだと気づかされました。技術の細やかさと、利益を追求する大胆さの、両方が必要だったんです」
数々の気付きを経営に活かすうち、気が付けば年商は家業を継承した時の4倍になっていた。
「いけるかな」
ようやく手ごたえをつかんだ泰孝氏は、一大決心をする。店舗の移転だった。
4. 見込み客は79万人!? 的確なマーケティング戦略
2017年12月、最大の挑戦だったと振り返る店舗移転は、「この町のどこに、集客できる資源があるのか」と考えた末の決断だった。
泰孝氏が目を付けたのは、加東市内のゴルフ場へ、年間79万人が訪れるゴルフ客(令和2年度 兵庫県観光客動態調査報告書より)。売地ではなかった土地を、地主と交渉の末に購入。広い駐車場を設けた新店舗を建設し、従業員の雇用にも力を入れた結果、ゴルフ客の来店が増え、売上にも反映されているという。そのゴルフ客を、集客に結びつけている工夫の一つが、道路沿いに建てた看板だ。
自動車専用道路のインターを降りたゴルファーたちが、ゴルフ帰りに来店するよう、導線を考え抜いたあちこちの場所に設置し、店舗へ誘導している。その看板で案内しているのは、肉ではなくコロッケだ。
「コロッケのほうが、気軽に来店していただけます。揚がるのを待つ間に肉を眺めるうち、京阪神地域で買うより値段が安いと驚かれ、一緒に肉も購入される方が多いんです。客単価のアップにも成功しています」
そんな泰孝氏は、加東市で商売をすることも、地域への貢献だと話す。
5. 加東市で店を存続させることが地域貢献
店舗の移転を検討していた時、もっと人口の多いまちを推す声もあったと明かす泰孝氏。それでも、この地域に残ることを決断した。
「確かに近隣の市町村にもマーケットは存在しますが、当然ライバルもいます。そこへうちが割り込んでも、誰も喜ぶ人はいませんから」
さらに、地元で肉を提供し続けることが、加東市への地域貢献の一つになると考えたのだ。
「小さな店ではありますが、この地域から無くなってしまっては困る人がいます。繁本精肉店じゃないとだめなんだと言ってくださるお客様もいます。そんな方へ肉を提供し続けることは、私たちの地域貢献の一つです。利益を出して納税をしていることも、地域への社会貢献ですしね」
そして、もう一つが人の雇用だ。採用で重視するのは、仕事ができるかどうかの前に、既存スタッフと仲良く働ける人物かどうかだと話す。
「職場にとって、最も大切なのは人間関係です。ありがたいことに、弊店は離職者が少ないんです。退職した正社員が1カ月後には戻ってきてくれたり、就職のためにアルバイトを辞めた高校生が、他社での就労を経て戻ってきてくれたり。家族経営からスタートして少しずつ人が増え、店の成長と一緒に歩んできているせいか、みんな温かいんです」
スタッフの話に、顔をほころばせる泰孝氏。これからの事業展開も、こうした地域貢献を視野に入れた目標を掲げている。
事業拡大でスタッフの意欲に応えたい
今、泰孝氏が本気で取り組まなくてはならないと考えているのは、新たな店舗展開だ。後継者がなく、精肉店が減っている現状を憂えている。
「精肉店が消えていく地域があるということは、そこにマーケットがあるということ。ビジネスチャンスでもありますが、今まで買っていた店が無くなって、困る人もいるということです。その人たちにとっては、私たちの出店そのものが地域貢献につながると考えています」
そして同時に、自店のスタッフたちの意欲に応えるためでもある。
「会社がどこを目指しているのか、どれほどの将来性があるのか、働いてくれているスタッフたちも、いろいろ考えると思うんです。会社側からの一つの答として、事業拡大という方針を示していくのはとても大切なこと。将来的な話をすると、みんな喜んで聞いてくれます」
常に新たな展開を見据える泰孝氏だが、経営に取り組む根底にあるものは、店を継承したときから変わらない。専門学校での学びをきっかけに育んだ、経営理念を大切にしている。
「肉には人を幸せにする力がある」
専門学校時代、ある講師が口にしたこの言葉を、大切にしている泰孝氏。
「商売である以上、当然利益を出さなくてはいけません。従業員の給与を上げ続けていくことも、雇用を守り続けることも義務です。だから、つい目先の売上を追求することに、心を奪われそうになります。でも本来、商売とは、地域にどう貢献していくかが絶対に大事なことであるはずです。その想いをブラさないための指針なんです」と語る。
「この店のお肉を贈ったら、すごく喜んでもらえた」と、顧客が感謝を伝えにやって来る繁本精肉店。
「贈られた人も、贈った人も幸せを感じられる食材を扱っていることに、誇りを持ちたい」
泰孝氏の言葉は、繁本精肉店スタッフ全員の想いでもある。
経営者紹介
代表取締役 繁本泰孝さん
無関心だった家業を継ぐ!?
幼い頃から、家業への関心はまったくありませんでした。次男ということもあり、店を継ぐ予定も、継ぐつもりもなかったんです。
大学卒業後、不動産会社に入社しましたが、毎日帰宅するのは夜の10時、11時。夜7時には家族が揃って食卓を囲む家庭で育ってきた私には、夜中まで仕事をすることに抵抗がありました。また性格的にも、決められたルールに従うより、自分で行動を決めたいタイプ。サラリーマンは合わないと感じ、3カ月で退職しました。
その後、神戸でフリーターとして働きながら、やりたいことを見つけようと思っていましたが、2年経っても見つからず、「帰って来い」という両親の言葉に従って、実家に戻ったのは25歳の時。肉屋に興味があったわけではなかったんですが、「自営業」に惹かれ、やってみようと思いました。
ところが、親の仕事を見てこなかったので、ロースやバラがどんな肉なのかわかりません。鶏肉と豚肉の違いも知らなければ、牛肉と豚肉の見分けもつかなかったんです。そこでまず、全国に2校しかない食肉の専門学校で学ぶことにしました。
肉の学校が教えてくれた「なんだって、やればできる!」
私が入学したのは、茨城県にある全寮制の専門学校でした。食肉の基礎知識、経営・販売、法律や衛生面などの学科授業と、生肉の加工や整形などの実習授業を、半年間受けました。16人の同期生の大半は、スーパーからリーダー候補として派遣されてきた、すでに肉を扱っている人たち。肉の知識も無ければ、包丁に触れたこともなかった私は、本当に苦労しました。
しかも、私は左利き。学校には右利きの包丁しかないので、肉の整形を行う実習は、右手で包丁を扱わなくてはいけません。ただでさえ未経験というハンデがあるのに、利き手ではない手で作業するというもう一つのハンデも背負い、手を傷だらけにしながら、毎日肉と格闘していました。
自由時間もほとんどない生活とカリキュラムの厳しさから、途中で逃げ出す学生や、辞めてしまう学生もいたほどでしたが、おかげさまで首席で卒業することができました。この学校での経験から学んだのは、「なんだって、やればできる」という気持ちだったのかもしれないと、今になって感じています。
経営力を備えた職人として、右肩上がりの売上を実現
学校を卒業して、しばらくは父親の手伝いを続けていましたが、お客さんは少なかったですね。昼寝をしたり、パソコンゲームで時間をつぶしたり、閉店後はアルバイトに出かけたりする生活が1年くらい続きました。
当時の店の売上は、過去10年以上ずっと右肩下がりで、私がもらう給料は小遣い程度。だんだんしんどくなってきて、「この売上を伸ばせたら功績になり、自分で自分の給料を決められる」と思い、自分なりに店の改革に着手し始めました。
後を継いだことを、後悔したことはありません。でも、先代たちを恨んだことはありました。「どうして、こんなどん底の状態で継がせるんだ。もっとしっかりしてくれていたら……」と思っていましたね。
曽祖父も、祖父も、父親も、他店を見ずに自分のやり方だけで経営を続けてきた人。それが、売上低迷の原因の一つになっていたのだと思います。家業を継ぐ際、よそへ修行に出るのが一般的ですが、そんな発想も、人手の余裕も無かったんです。昔は肉屋を開いてさえいれば、お客さんが来ていました。時代が変わっているにもかかわらず、他店を知る努力をしなかったつけが、回ってきていると感じていました。
私が、他店の内容を真似て、自分の店にも取り入れるようになると、実績が数字になって現れ始めました。すると、それまでは私のやり方に反対していた父親も、少しずつ合わせてくれるようになりました。
特に、2014年に出かけた名古屋の修行先では、今の経営につながっているビジネスヒントを学ぶことができました。職人としての丁寧さや細やかさを引き継ぎながら、業務を効率化し、利益率を高め、見せ方を工夫すること。その結果、ブランド力が生まれ知名度でお客様を呼べること。自店にも私自身にも足りなかったものを、たくさん目の当たりにすることができ、今の店舗経営に活かすことができています。
後を継がせてくれて、ありがとう
振り返ってみれば、転機が3度ありました。
1度目は、頑張って売上を伸ばし、自分の給料を自分で決めるんだと決意したこと。2度目は、初めて他店へ修行に出かけ、自店の経営を見直せたこと。そして3度目は、店舗を移転したことです。先祖代々100年間も守り続けてきた土地を手放すのは、やはり一大決心でした。移転してもうまくいくかどうかわからない中で、腹をくくって挑戦したことが、ターニングポイントだったと感じています。
新しい発想はなかなか生まれませんが、ふとひらめく瞬間があるんです。本来、石橋を叩いて渡る慎重派なので、ひらめいてから行動に移すまで時間がかかるのですが、「これをやったらおもしろいな」「これはきっと、うまくいく」と思ったことは、たいてい成功しています。
例えば、看板。あるお客様が「ここの肉を買って帰るようになったら、ゴルフへ行くと言っても嫁さんが嫌な顔をしなくなった」と、話してくださったことがきっかけでした。ゴルファーって、土日に家族サービスもせず、一人で遊びに来ているという罪悪感から、お土産を買って帰る方が多いんです。「コロッケをお土産に!」という看板を掲げたおかげで、多くのゴルフ客が来店してくれるようになり、売上の向上につながっています。
家業を継いで15年、様々な取組を重ねてきましたが、店の経営状態がどん底の時でも、廃業せずに頑張って営業を続けてくれていたのは、何よりすごいことだと思っています。到底、自分にはできないこと。今では、後を継がせてもらったことを、両親に感謝しています。面と向かってはなかなか口にできないので、この取材記事を読んでもらおうかなと思っているんです(笑)。
従業員紹介
三村真弓さん
明るく、きれいなお肉屋さん
パートタイマーとして、接客や惣菜の調理補助などを担当しています。コロッケは10個単位で購入されるお客様が多く、特に土日になるとトレーにいっぱい用意していても、衣をつけた分だけ売れていくので、揚げても揚げても追いつきません(笑)。
子育てをしながら働ける職場を探していた時、求人を見つけたのが繁本精肉店でした。実は、問合せの電話で社長と言葉を交わした時から、「ここで働きたい!」と思っていたんです。お店の第一印象は「明るいお肉屋さん」。スタッフの方々も明るく、清潔感たっぷりで、加東市にこんなきれいなお肉屋さんがあったんだと驚きました。
入社してみると、想像していた以上にアットホーム! スタッフの皆さんも親しみやすく、困った時には助けてくれる人ばかりです。入社して間もなく、子どもが急に熱を出し、休まざるを得ない日が続いた時も、勤務シフトが大変だったはずなのに、誰一人として嫌な顔もせず「良くなった?」と気遣ってくださいました。皆さんのやさしいフォローに支えていただき、「さらに頑張りたい!」との想いで働いています。
日々、伝え合うのは感謝の言葉
職場として、繁本精肉店の素敵なところは、スタッフ同士の声の掛け合いだと思っています。
例えば、お肉を運んで「お願いします」と声をかけると、「わかりました、ありがとうございます」と返事が返ってきたり、運搬作業に手を貸してくれた男性スタッフに「ありがとうございます」と言うと、「いいよいいよ、力持ちだから」と明るく受け取ってくれたり……。ちょっとした作業でも、みんなが「ありがとう」と感謝を伝え合っています。
また、手間取っていると、すぐに誰かが気づいてくれ、さりげなく手伝ってくれるんです。私にも手伝えることがないか、自然と店内を見回すようになりました。一日の業務の中で、みんながお互いをフォローし合おうとする空気を感じられるって、本当に素敵な環境だと思っています。
時には、お肉の加工室で働くスタッフが、接客や総菜づくりでの何気ない行動に気づいてくれ、ほめてくれることもあります。「あの時の対応がすごくよかった、ありがとう」と社長から声を掛けられ、うれしすぎて泣きそうになったこともありました。
子どもたちが、一番の理解者になってくれた!
仕事の楽しさは、小学生と幼稚園児の2人の子どもたちにも伝わっているようです。帰宅した時、「疲れた」じゃなく「楽しかった」と私が話すので、「今日は楽しいことあった?」と聞いてきます。子どもたちが、一番の理解者になってくれているんです。
週末には、子連れで出勤させていただくこともあります。子どもたちもお店が大好きで、土曜日が出勤日じゃないとわかると残念がるほど。大人たちが「ありがとう」を伝え合っている姿を見せられるのは、ありがたいと思っています。
一緒に出勤した日の子どもたちは、「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」って、お客様に大きな声で挨拶をしています。みなさんが受け入れてくださり、仕事と子育ての両立がかなって、楽しく働けていることに本当に感謝しています。
これからも地元の方はもちろん、「繁本精肉店のお肉だから」「繁本精肉店のコロッケだから」と、この店を選んで来てくださるお客様が増えてほしいと願っています。
ネガティブな言葉や考え方が、無くなる職場
初めての仕事、初めての職場でも、ビクビクしなくて大丈夫! 悩み事もすぐに解決できるぐらい、周りの方に助けてもらえるので、どっしり構え、安心して入社していただきたいと思います。
困ったことができた時は、周りのみんなが気づいてくれます。前向きな言葉がけと、ポジティブな考え方で、明るく楽しく働かせてくれる仲間たちがいますよ。
文:内橋麻衣子/写真:高橋武男
※令和4年度 加東市商工会企業紹介PR事業